二
「どうしたんですよ? その傷は。」
ある静かな雨降りの夜、お蓮は牧野の酌をしながら、彼の右の頬へ眼をやった。そこには青い剃痕の中に、大きな蚯蚓脹が出来ていた。
「これか? これは嚊に引っ掻かれたのさ。」
牧野は冗談かと思うほど、顔色も声もけろりとしていた。
「まあ、嫌な御新造だ。どうしてまたそんな事をしたんです?」
「どうしてもこうしてもあるものか。御定りの角をはやしたのさ。おれでさえこのくらいだから、お前なぞが遇って見ろ。たちまち喉笛へ噛みつかれるぜ。まず早い話が満洲犬さ。」
お蓮はくすくす笑い出した。
「笑い事じゃないぜ。ここにいる事が知れた日にゃ、明日にも押しかけて来ないものじゃない。」
牧野の言葉には思いのほか、真面目そうな調子も交っていた。
「そうしたら、その時の事ですわ。」
「へええ、ひどくまた度胸が好いな。」
「度胸が好い訳じゃないんです。私の国の人間は、――」
お蓮は考え深そうに、長火鉢の炭火へ眼を落した。
「私の国の人間は、みんな諦めが好いんです。」
「じゃお前は焼かないと云う訳か?」
牧野の眼にはちょいとの間、狡猾そうな表情が浮んだ。
「おれの国の人間は、みんな焼くよ。就中おれなんぞは、――」
そこへ婆さんが勝手から、あつらえ物の蒲焼を運んで来た。
その晩牧野は久しぶりに、妾宅へ泊って行く事になった。
雨は彼等が床へはいってから、霙の音に変り出した。お蓮は牧野が寝入った後、何故かいつまでも眠られなかった。彼女の冴えた眼の底には、見た事のない牧野の妻が、いろいろな姿を浮べたりした。が、彼女は同情は勿論、憎悪も嫉妬も感じなかった。ただその想像に伴うのは、多少の好奇心ばかりだった。どう云う夫婦喧嘩をするのかしら。――お蓮は戸の外の藪や林が、霙にざわめくのを気にしながら、真面目にそんな事も考えて見た。
それでも二時を聞いてしまうと、ようやく眠気がきざして来た。――お蓮はいつか大勢の旅客と、薄暗い船室に乗り合っている。円い窓から外を見ると、黒い波の重なった向うに、月だか太陽だか判然しない、妙に赤光のする球があった。乗合いの連中はどうした訳か、皆影の中に坐ったまま、一人も口を開くものがない。お蓮はだんだんこの沈黙が、恐しいような気がし出した。その内に誰かが彼女の後へ、歩み寄ったらしいけはいがする。彼女は思わず振り向いた。すると後には別れた男が、悲しそうな微笑を浮べながら、じっと彼女を見下している。………
「金さん。」
お蓮は彼女自身の声に、明け方の眠から覚まされた。牧野はやはり彼女の隣に、静かな呼吸を続けていたが、こちらへ背中を向けた彼が、実際寝入っていたのかどうか、それはお蓮にはわからなかった。