十一
妾宅の新年は寂しかった。門には竹が立てられたり、座敷には蓬莱が飾られたりしても、お蓮は独り長火鉢の前に、屈托らしい頬杖をついては、障子の日影が薄くなるのに、懶い眼ばかり注いでいた。
暮に犬に死なれて以来、ただでさえ浮かない彼女の心は、ややともすると発作的な憂鬱に襲われ易かった。彼女は犬の事ばかりか、未にわからない男の在りかや、どうかすると顔さえ知らない、牧野の妻の身の上までも、いろいろ思い悩んだりした。と同時にまたその頃から、折々妙な幻覚にも、悩まされるようになり始めた。――
ある時は床へはいった彼女が、やっと眠に就こうとすると、突然何かがのったように、夜着の裾がじわりと重くなった。小犬はまだ生きていた時分、彼女の蒲団の上へ来ては、よくごろりと横になった。――ちょうどそれと同じように、柔かな重みがかかったのだった。お蓮はすぐに枕から、そっと頭を浮かせて見た。が、そこには掻巻の格子模様が、ランプの光に浮んでいるほかは、何物もいるとは思われなかった。………
またある時は鏡台の前に、お蓮が髪を直していると、鏡へ映った彼女の後を、ちらりと白い物が通った。彼女はそれでも気をとめずに、水々しい鬢を掻き上げていた。するとその白い物は、前とは反対の方向へ、もう一度咄嗟に通り過ぎた。お蓮は櫛を持ったまま、とうとう後を振り返った。しかし明い座敷の中には、何も生き物のけはいはなかった。やっぱり眼のせいだったかしら、――そう思いながら、鏡へ向うと、しばらくの後白い物は、三度彼女の後を通った。……
またある時は長火鉢の前に、お蓮が独り坐っていると、遠い外の往来に、彼女の名を呼ぶ声が聞えた。それは門の竹の葉が、ざわめく音に交りながら、たった一度聞えたのだった。が、その声は東京へ来ても、始終心にかかっていた男の声に違いなかった。お蓮は息をひそめるように、じっと注意深い耳を澄ませた。その時また往来に、今度は前よりも近々と、なつかしい男の声が聞えた。と思うといつのまにか、それは風に吹き散らされる犬の声に変っていた。……
またある時はふと眼がさめると、彼女と一つ床の中に、いない筈の男が眠っていた。迫った額、長い睫毛、――すべてが夜半のランプの光に、寸分も以前と変らなかった。左の眼尻に黒子があったが、――そんな事さえ検べて見ても、やはり確かに男だった。お蓮は不思議に思うよりは、嬉しさに心を躍らせながら、そのまま体も消え入るように、男の頸へすがりついた。しかし眠を破られた男が、うるさそうに何か呟いた声は、意外にも牧野に違いなかった。のみならずお蓮はその刹那に、実際酒臭い牧野の頸へ、しっかり両手をからんでいる彼女自身を見出したのだった。
しかしそう云う幻覚のほかにも、お蓮の心を擾すような事件は、現実の世界からも起って来た。と云うのは松もとれない内に、噂に聞いていた牧野の妻が、突然訪ねて来た事だった。