一 幕あひ
「あら、吉岡さん。」
「おやお前は。」
「何てお久振なんでせう。」
「お前、藝者をしてゐたのか。」
「去年の暮から…………また出ました。」
「さうか。何しろ久振だ。」
「あれから丁度七年ばかり引いてゐました。」
「さうか、もう七年になるかな。」
幕のあく知らせの電鈴が鳴る。各自の席へと先を爭ふ散步の人で廊下は
「ちつともお變りになりませんね。」
「さうかな、お前こそ何だか大變若くなつたやうだぜ。」
「あら御冗談ですよ。この年になつて………。」
「いや全く變らないな。」
吉岡は眞實不思議さうに女の顏を
「その中、一度ゆつくりお目にかゝらせて頂戴。」
「何ていつて出てゐるんだ。
「いゝえ、今度は駒代ツて申します。」
「さうか。その中呼ばう。」
「どうぞ……。」
舞臺からは早くも拍子木の音が聞える。駒代はそのまゝ自分の席へと廊下を右の方へ小走に立去つた。吉岡は反對なる左の方へと同じく早足に行きかけたが何と思つたか不圖立止つて後を振向いた。廊下には案内の小娘と賣店の女が徘徊するのみで駒代の姿はもう見えなかつた。吉岡は有合ふ廊下の腰掛に腰をおろして卷煙草に火をつけ思ふともなく七八年前の事を囘想した。二十六の時學校を卒業し二年程西洋に留學してから今の會社に這入つて以来こゝ六七年の間といふものは、思へば自分ながらよく働いたと感心する程會社の爲めに働きもした。株式へ手を出して財產をも作つた。社會上の地位をもつくつた。それと共に又思へばよく身體をこはさなかつたと思ふ程、よく遊びよく飮んだ。彼はいつも人に向つて得々として云ふ如く誠にいそがしい身體なので、過去つた日の事なぞは唯の一度も思返して見るやうな暇も機會もなかつたのである。ところが今夜偶然にも學生の頃始めて藝者といふものを知りそめた其の女に邂逅して、吉岡は自分ながらどういふ譯とも知らず、始めて遠い昔のことに思を寄せたのであつた。
何にも知らないあの時分には藝者といふものが何となく凄艷に見えた。そして藝者から何とか云はれるのが眞實嬉しくてならなかつた。今日あの時のやうな
全く其の通りかも知れない。吉岡は今の會社に這入つてまだ十年にならないのに早くも營業係長の要路に用ひられ社長や重役から珍らしい才物だと云はれてゐるだけ、同僚や下のものにはあまり受のよい方とは云はれない。
吉岡は新橋に湊屋といふ看板を出してゐる力次といふ藝者をば三年ほど前から世話をしてゐる。然し有ふれた旦那のやうに
吉岡にはもう一人妾同樣にしてゐる女がある。それは濱町に相應な構をしてゐる村咲といふ待合の
吉岡はそれやこれやの複雜な關係に比較して、相手の駒代はたしか十八自分はたしか二十五、互に何が何やら分らずに馴染を重ねた其の時分の單純な無邪氣な心の中を思返すと、自分ながら何となく芝居か小說でも見るやうな美しい心持がして來る。美しいだけに
「や、こゝにおゐでゞしたか。
洋服をきた
「どこから。」
「いつもの處です。」と
「
「實は誰かと思つて少しは
「君、力次は今夜僕等がこゝにゐるのを知つてると見えるね。」
「屹度誰か連中の見物にでも來てゐたのが知らせたんでせう。お歸りに是非一寸でいゝからお寄り下さるやうにといふ事です。」
「江田君、實はそんな事より今夜は少し珍談があるんだがね。」と吉岡は
「また濱町の件ですか。」
「いや、そんな舊聞ぢやない。ロオマンスだ。」
「え、何です。」
「小說見たやうな話があるといふのさ。」
「さうですか。面白さうですな。」
江田は合槌を打ちながら廊下を地下室の廣い食堂へとついて行つた。
「君は相變らずウイスキイだつたね。」
「いや、今夜は少し廻つてゐますからビイルにして置きませう。まだ腰を拔かすにはちつと早過ぎませうて、はゝゝゝは。」
江田は顏中を皺だらけに
「珍談とは一體何です。」とボオイの置いて行つたビイルを片手にしながら江田はいかにも聞きたさうに力を入れて、「まさか拙者を
「實はさう有りたいんだがね。」
「へゝえ。これア大分罪が深さうですな。」
「江田君、ひやかしちやいかんよ。僕は今夜始めて女に迷つたやうな氣がした。」云終つて吉岡はあたりに人もやあると見廻したが廣い食堂には遠い片隅にボオイが二三人寄つて話をしてゐるばかり、見渡すかぎり人のゐない
「江田君これア眞實まじめな話だよ。」
「はゝア此の通謹聽してゐます。」
「いかんなア。いつでも君には冗談ばかり云ふもんだから……眞劍な話はどうもしにくい實はその何だ。
「ふむ〳〵。」
「僕がまだ學校にゐた時分知合つた女なんだがね。」
「お孃さんですか。どこかの奧樣になつてゐると云んでせう。」
「氣が早いな。
「藝者ですか。して見ると隨分早くから御修行なすつたもんですね。」
「あれが、その僕が道樂をし出したそも〳〵一番初めの藝者なんだ。其の時分駒三と云つてゐたんだ。さうさ、一年ばかりも遊んだかな。さうかうする中に僕は學校を出てすぐ洋行するんで、其の時には相應にまア
「ふむ〳〵。」と江田は吉岡から貰つた葉卷を惜し氣もなくスパリ〳〵と吸つてゐる。
「七年ぶりで新橋へ出たんだとさ。駒代といふんださうだ。」
「駒代……
「名前を聞いたばかりだから、自分で店を出したのか、それとも借金をしたのか其の邊の事は何にも知らない。」
「外のものに内々で聞いて見ればすぐにわかりませう。」
「兎に角七年も引いてゐて又出たんだといふから何れ仔細があるに違ひないさ。今までどう云ふ方面の人の世話になつてゐたんだか、實はその邊の事も知つて置きたいんだがね。」
「大分御詮議が
「仕方がないさ。かう云ふ事は始めに承知して置くが一番だよ。友達の女と知らずにくどいて、出來てしまつた後で恨まれるなんて云ふ話はよくあるやつだからな。」
「さう急に話が進んで來ちや拙者も愚圖々々しちや居られませんな。兎に角一度お姿を拜んで置きませうどの邊に居るんです。棧敷ですか。」
「今廊下で見たばかりだから、何處に居るか分らない。」
「お歸りにはどうせ何處へかお
「よろしく賴むよ。」
「力次はいよ〳〵祇王妓女ですな。かわいさうに…はゝゝは。」
「
廊下の方から無遠慮に大きな聲で話をしながら這入つてくるお客がある。吉岡はそれと氣付いて話と途切した。舞臺の方では立廻でもあるのか頻に付板を叩く響がする。
「おいボオイ、勘定……。」
吉岡は椅子から立つた。