九 おさらひ
每年の春秋三日間歌舞伎座で催す新橋藝者の演藝會もいよ〳〵秋期大會の初日となつて番組の第一番目花やかな總踊が今方丁度幕になつた處である。
「あなた、早く來てようござんしたわ。
「あら、奧さん、どうも恐入りました。」と宇治の師匠らしい女は茶碗を受取り、「もう十年近くになりませうね。たしか先代の瀨川さんがおやんなすつたんでしたね。あの淨瑠璃で御在ませう。」
「さうですよ。近年はどうした事か、折々時ならない時分に私の書いた碌でもない狂言や淨瑠璃が出るんで實は閉口してゐるんです。何しろ氣まりが惡くていけません。」
「宅ではいつでも御自分のものが出ると御氣嫌が惡いんですよ。その位なら始めからお書きにならなけれアいゝのに…………ほゝゝゝほ。」と丸髷は笑ながらお孃さんのつまめるやうにと大きな羊羹を楊枝でちぎり始める。
「はゝゝゝは。」と南巢は番組の摺物を眺めて唯可笑しさうに笑つた。番組には其の三番目に南巢が舊作なるお玉ケ池由來聞書といふ淨瑠璃名題その下に常磐津連中と踊る藝者の名が三人並べてあつたが、南巢は一向氣にも留めぬらしい樣子で直樣あたりの混雜に眼を移した。劇場は今しも追々おくれ走せに押掛けて來る看客に廊下運動場は勿論東西の花道平土間の間の
倉山南巢は自作の淨瑠璃や狂言の演ぜられるのを看るよりも今は唯芝居の中の混雜や見物人の衣裳髮形の流行なんぞを何の氣もなく打眺めるのを遙に面白いと思つてゐるので、劇場から劇評家として或は作者として招待される事があれば場末の小芝居だらうが本場の檜舞臺だらうが、そんな事には一向頓着せず必ず義理堅く見物に來る。然し十年前のやうにもう力瘤を入れて議論はしない。實際見てゐられぬ程下手だと思ふ藝にも何とか愛嬌をつけて褒めた批評を書かうと勉めるが、折々褒めそこなつては
「おきねさん。」と南巢は
「あらお萬さんが來てゐますか。奧さん一寸眼鏡を拜借します…………成程々々お萬さんですよ。見ちがへるやうになりましたね。その手前の桟敷にゐなさるのはアレは對月の女將ですね。」
「家の親爺が盛んに呑んだ頃にや、あんなに肥つてやしなかつたが金が出來るとえらいもんだな。まるで相撲だな。」
見てゐると土地に勢力のある女將の處へはしつきりなしに藝者が四人五人と打連れて挨拶に來る。役者も藝人も幇間も通りかゝりに腰をかゞめる。お遣物の水菓子鮓のたぐひが引かへ取りかへ引きも切らず運ばれる有樣、打眺める南巢の眼には舞臺の演藝よりも遙に面白く見えるのであつた。殊に、今日の見物と云へば平素興行の劇場とは又一種ちがつて、東西の桟敷鶉へずらりと並んでゐるのは新橋を中心にして、新橋への義理で東京中の重立つた茶屋待合の女將や藝者を網羅したと云つてもよい。それに加へて役者に役者のかみさん、音曲諸流の家元師匠の連中から相撲取もゐれば幇間もゐる。さう云ふ仲間から敬い尊ばれてゐる紳士旦那方御前なんぞ云ふ人逹の顏も見える。或はそれと反對に花柳界の寄生蟲とも云ふべきセルの袴や洋服を着た一種の人間もうろ〳〵徘徊してゐる。藝者家の亭主親方女中箱屋もしくは藝者の身寄のものは先づ大抵平土間の末の方に寄集つてゐた。
南巢はかう云ふ人逹を見るため獨り廊下へ出てぶら〴〵してゐると往交ふ人の中から花やかな聲で、
「先生ようこそ。」と呼びかけられ其の方を見返るとこれは白襟裾模樣髮は鬘下地にした尾花家の駒代であつた。
「お前さんの出し物は何だい。」
「保名です。」
「さうか、何番目だ。」
「まだなか〳〵ですよ。五番目位でせう。」
「いゝ處だな。おそからず早からず、見物が一番氣乗りのする時分だ。」
「あら大變だわ。猶心配になつちまふわ。」
「吳山さんはお逹者か。」
「ありがたう。もうその中參りませうよ。姐さんと一所に出掛けるツてさう云つて居りました。」
通りかゝる同じ鬘下地の藝者が駒代の姿を見て、「駒代姐さん、さつき御師匠さんがさがしてゐてよ。」
「あらさう、先生それぢや又後ほど。どうぞ御ゆるり。」と云捨てゝ駒代は人込の廊下を小走に馳けて行く折から、舞臺では番組の第二番目が始まると見え拍子木の音が聞えて、廊下の往来は
廊下のはづれの出入口からすぐ舞臺の裏へ出て、駒代はいつも芝居のある折には大抵瀨川の部屋に定められてある二階の一室へ急いだ。駒代はこの三日の間瀨川の兄さんの部屋を借り
「何だい。あんなに電話で人をいそがして置いて、お前今來たのか。」
「お氣の毒さま。」と人前はゞからず其の側に坐つて「いま表へ御挨拶に行つてゐたのよ。兄さん、
「何だい、そら〴〵しく御禮を云ふぢやないか。それアさうと、まだなかなかお前の番ぢや無いだらう。」
「えゝ。」
「表に誰か來てゐるかい。」
「○○さんも□□さんも(役者の本名を云ふと知るべし)みんな居らしつてよ。」
「さうかい。」
「みんなお二人づれよ。」と駒代は何といふ譯もなくつい言葉に力を入れて云つたのを自分ながら心付いて「岡燒したつて始まらないわね。ほゝゝゝほ。」
その時床山が駒代の鬘を見せに來た。