十一 菊尾花
演藝會は三日間大入を取つて目出度く千秋樂になつた其の翌日の事である。新橋の藝者町は年が年中朝早くから家每に聞え出す稽古三味線の音今日ばかりはぱつたり途絕えて、稽古に通ふ女の往來もわけて少い處から、金春通を始め仲通板新道から向側の信樂新道まで祭のあとの町内も同樣何やらひつそりと疲れたやうに見えた。そして時たま忙しさうに步き廻る
苦情と不平は事ある每に必ず此の仲間のつき物。但し政治家のやうに詭計を廻して紛擾を釀させ之を利用して私腹を肥さうと云ふ程惡賢くないのが、まだしも藝者の議員より品格ある處かも知れぬ。されば此日は朝湯の
駒代は皆の出て行つた
駒代は一昨々夜演藝會の初日の晩、いつもならば濱崎へお寄りになるべき筈の吉岡さんが、自分の出し物の濟むかすまぬ中に急用とやらでお歸りになつてしまつた其の事について、何か譯があるのでは無いかと、駒代は瀨川との關係から何かにつけて疵もつ足。その時から頻に心配してゐながら、然しその夜は吉岡がゐなければ結局瀨川とゆつくり出逢つて、舞臺の出來のよしあしをきゝ、直すべき處はそのやうに手を取つて敎へて貰へる嬉しさに、濱崎へはとう〳〵電話もかけずにしまつた始末。二日目は對月のお客橫濱の骨董屋の旦那で全つぶれ、昨夜三日目の晩は突然思ひもかけない杉島さんと云ふ大連のお客――此の春弘めの當時頻に口說くのを無理に振つてしまつた其の人に呼ばれ、矢張體のいゝ事を云つて逃げるのに骨が折れた爲め今日まで心ならずのび〳〵になつてゐたのである。
濱崎の女將は其の夜吉岡さんは別に怒つた御樣子もなく、江田さんに何かお話しなすつて先へお歸りになつた、全く何か急な御用があつたらしい。江田さんはそれからお前さんも知つての通り後一幕見て獨りでお歸りになつたと云ふ。駒代はまア〳〵よかつたと窃に胸を撫ぜ〳〵歸つて來て、用簞笥の上に安置したお稻荷樣へ途中で買つた金つばを二ツ供へて一心にその御利益を念じた。
その夜は無事お座敷に行つて歸つて來たが、いつものやうに菊千代は泊込みと見えて姿を見せなかつた。その翌日になつても皆がそろ〳〵夕化粧にかゝる時分まで、まだどこからも居處を知らして來ないと云ふので、箱屋のお定は萬が一の事でもありはしないかと心配し出す。身受の話はどうやら逃亡か自由廢業の風說に變じかけて來た。尤もこれまでも度々菊千代はお座敷からいきなり家へは何とも斷らずにお客のいふまゝ箱根伊香保はおろか、京都まで行つてしまつた事さへある位なので、姐さんの十吉は案外驚かず唯菊千代のだらしが無さ加減、他のものゝ手前もあればどうにか爲なければ仕樣がないと愚痴をこぼすばかり。身受がきいて呆れると云つてゐる處へ、ふらりと菊千代は根の拔け切つた大丸髷崩れ放題こわれ放題、眞赤な手柄がよくまだ落ちずにゐると思はれるのを平氣でぐら〳〵させながら、顏は日頃厚化粧の白粉ところ
「姐さん、鳥渡お話があるんですよ。」
さては身受の噂は滿更の譃でもないのかと、十吉は早くも推察して二度びつくり。しげ〴〵と菊千代の顏を見直しながら人のゐない奧の間へと立つた。
小半時して菊千代は丸髷ぐら〴〵前さがりの裾だらしなく、
「私も
「
「えゝ。おかげ樣で。」と誰に云ふのやら分らぬ挨拶。「花ちやん。家がきまつたら遊びにおゐでよ。」
さすが
「
「引いたつて、つまらないから自前でやるつもりなのよ。」
「あゝそれがいゝよ。勝手づとめで出てゐる位面白い事はないからね。」と駒代も云ひ添へた。
「
菊千代はうゝむと駄々兒のやうに頸を振りながら唯だ笑つてゐるので今度は駒代が、
「それぢや
菊千代はやはり笑つてゐる。
「誰だよ。菊ちやん。朋輩のよしみぢやないか。敎へたつていゝぢやないか。」
「だつて氣まりがわるいからさ。ほゝゝゝほ。」
「どうも、御尋常でゐらつしやいますからね。」
「だつて、みんなの知つてる人なんですもの。隨分箒屋さんだからさ今にすぐ知れるわよ。」
出先の茶屋からそろ〳〵御催促の電話に
茶屋は濱崎、客は吉岡である。吉岡は鳥渡
然し駒代は兎に角に吉岡さんが見えたのでお茶屋への手前もよく此れで演藝會初日の夜の心配もなくなり、快く菊千代への祝物もすました。菊千代は板新道に頃合の空家を見つけて菊尾花と云ふ分看板を出した。そして今まで結つけの同じ髮結さんへ來て時折駒代に逢へば別に以前と變つた樣子もなく相變らず取り留のない事を言つてゐるので、駒代は其後しばらくの間菊千代を身受した旦那が誰あらう自分の旦那の吉岡さんであらうとは全く氣がつかずにゐたのであつた。
一ツ小袖の陽氣はいつか過ぎた。花月が膳には初茸しめぢの香も早や尊からず松茸は松本が椀にも惜氣なく煮込まれ、一トしきり、日比谷公園に人足牽きつけた菊の花もいつの間にやら跡方なく、あたりの落葉
駒代はこの時分になつて始めて吉岡さんが其の後ぱつたりお出にならないが、どうなすつたのかと急に氣をもみ出したのである。丁度折から吉岡さんの切廻してゐる保險會社の宴會があつて、每年きまつて呼ばれる藝者は大抵其の夜も呼ばれてゐたのに駒代だけには何とも沙汰がなかつた事を其の翌日聞き知つてさてはと一方ならず胸を惱したがもう何とも仕樣がない。
瀨川の
對月で花助が無理に取持つた
この口惜し淚――女が齒を喰縛りながら何とも出來ぬ見じめな樣を見るのが潮門堂の主人の面白くてならぬ處なのである。海坊主は自分から色の眞黑なのをよく承知して若い時から女には萬事
されば駒代が一方に瀨川と云ふ色のあるかぎりこの海坊主を振り切りたいにも振切り兼ねてゐるらしい樣子、海坊主には又とないお誂ひ向の藝者である。海坊主は十二月の聲をきくと、誰しも道に落ちた金でもあらばと血眼になる時節柄と思へば、時分はよしとのそり〳〵對月へ出かけて駒代をかけた。冬の日は短いながらまだ暮れきらぬ。駒代は出入の小間物屋へと板新道を拔けて行く折から圖らず電燈に菊尾花とかいた家を見て自前になつてからついまだ一度も尋ねなかつたと思付き、門口から聲をかけた。内からはお上んなさいよと云ふのを、玉仙まで買物に行くから歸りに寄らうよと、その儘步いて行く向から一挺の幌車、すれちがひに幌の間からチラと見えた橫顏はまさしく吉岡さんらしいのに駒代は振返つて佇む間もなく、車は菊尾花の門口に止つて幌の中から降りる洋服のヅボンの色には見覺えがある。をかしいなと思ひながら、さすがに、まさかに、さうとも疑ひかね、駒代は兎に角樣子を窺ふにしくはないと、おそる〳〵門口へ立戾る途端、使か買物か十四五の女中らしい小娘格子戶がらりと明けて出るのを幸ひ、呼止めて、
「お客樣なの。」
「えゝ。」
「あの方姐さんの旦那…………。」
「えゝ。」
「それぢや又來るわ。姐さんによろしく…………。」
「えゝ。」
駒代は家へ歸つたがあまりの事に淚も出ない。今日が今日まで知らねばこそ、のめ〳〵と門口を通つたついでに聲もかけた。内では今頃さぞ馬鹿な奴だと腹をかゝえて笑つてゐるだらうと思ふと、實にもう何とも云ひ樣のない心持になつた。
丁度箱屋のお定が對月からお座敷だと知らせたが、對月と云へばお客はどうぜ海坊主と思へばまた更に腹が立つ。駒代は心持が惡いから今夜は自分で仕舞つて休むからと、その儘二階へ上つたが、三十分程すると何かまた思返したらしく、箱屋を呼んでお座敷へ出て行つた。
やがて間もなく燈火がつく時分、駒代は電話口へ花助を呼出した。「私、これから水戶まで行つて來るわ。お定さんにも姐さんにも何とかいゝやうに云つて置いて…………ね、お願いだから、たのんでよ。」とその儘切つてしまいさうなのに花助はあわてながら、
「まア駒ちやん、お前さん、今どこにゐるんだよ、對月さんかい。」
「いゝえ、對月さんは一寸顏を出して宜春さんにゐるのよ。身體の事は宜春さんのおかみさんにお話したのよ。だけれども私から家へ電話をかけてさう云ふと面倒だからさ。明日か明後日の中には歸つて來るわよ。鳥渡兄さんに逢つて話したい事が出來たんだから。よくつて、後生だから、たのんでよ。」
駒代は何と云ふ譯もなく唯無暗に兄さんの顏が見たくなつたのである。この口惜しさ無念さ――腹の中が煑くり返つてしまひさうなのに、誰一人たよるものもない、云慰めてくれるものもない悲しさ心細さ。駒代は瀨川一糸が水戶の興行先へと前後の思慮なく駈けつける氣になつたのである。