十九 保名
二三日たつと都新聞に「狂亂心の駒代」といふ見出しで一段半程の艷種が出た。去年の秋歌舞伎座の演藝會で保名の狂亂今年の春は隅田川、二度つゞいての狂亂に當りを取りめつきり賣出して今では新橋中この名妓ありと誰知らぬはなき尾花家の駒代が、しかも芝居の初日の夜、大事な〳〵濱村屋の太夫を橫取りせられ寢やうとすれど寢られねば日の出るまでも待ち明かす、あらうつゝなの妹瀨川、土人形にあらざれば悋氣もせずにおとなしう此の儘だまつちや居られぬと、舞のお扇子踏みしだき狂ひ狂ひし一夜の始末、すべて保名の淨瑠璃
この最後の噂は誰の耳にも至極尤らしく聞えた。と云ふのは昨日の浮いた噂が今日の結婚談になるのには何ぼ何でも事があんまり早過るやうに思つた連中もこれによつて始めてどうやら合點が行くからである。
駒代はこの噂を聞くと共にいよ〳〵もう自分は駄目だと覺悟した。瀨川の方では此上もない便利な口實として此の噂を申譯にした。されば二人の間にはこの噂が果して事實であつたか否かについては一度も爭論されずにしまつたのである。一圖にさうと思ひ詰めて
「世間ぢや專ら僕逹は結婚するんだつて言つてるぜ。何かと云ふとすぐ結婚の評判だ。」
「ほんとに御氣の毒さまですね。」
「お前さんこそさぞ御迷惑でせう。相濟みません。」
「あら。どうして私が迷惑なんです。伺ひたいもんですね。」
「かう評判になつちまつちや、當分お前さんこそ何處へも行かれやしないぢやないか。」
「ですからさ。私はまことに兄さんに御氣の毒だと此方からさう云つてゐるんぢやありませんか。折角駒代さんと云ふ方がおあんなさるのに私が出た爲めに、その方の事がどうかなるやうだつたら私はほんとに申譯がありませんわ。」
「駒じるしの話は禁句だよ。だが不思議な話があるもんだね。お前さんと私とはずつと以前に、お前さんが力次さんの家にゐた時分夫婦約束をしたんだツて云ふ評判だよ。お前さんは其中旦那が出來て身受をされたんで一時別れ〳〵になつてゐたんだとさ。力次さんもなか〳〵人が惡いよ。現にその事を力次さんに
「さうしたら、どうしました。」
「どうしたか、それきり逢はないから知らない。」
「全く不思議ねえ。全く昨日今日のやうな氣がしないわね。どうしてこんなに成つてしまつたんでせう。兄さん。」
「何だい。」
「
瀨川は其夜誘はれるまゝに以前は妾宅であつた濱町なる君龍の家に泊ると、一晩が二晩三晩になり遂に其のまゝ其處から芝居へ出勤するやうになつた。すると男衆の綱吉に車夫の熊公二人がつゞいて
すると繼母のお半は何がさて置き君龍の財產を賴母しく思つた爲か、わざ〳〵濱町の方へ出向いて來て何分にもどうぞ忰をよろしくとの賴み、やがて返禮に來た君龍をば下へも置かずもてなした處から、君龍の方でも實の母同樣に慕はしく思込むと云ふ風、二人は忽連立つて新富座のみならず帝國劇場や市村座なんぞ他の芝居へも見物に行く間柄になつた。
此の間に湊屋の力次は新橋の茶屋々々藝妓仲間を始めとして知合の役者藝人逹へも何とつかず遠廻しに君龍の方へ利益のあるやうな、同情のよるやうな噂の種をば絕えず振り蒔いてゐた。