或日素戔嗚が宮の前の、椋の木の下に坐りながら、大きな牡鹿の皮をいでゐると、海へ水を浴びに行つた須世理姫が、見慣れない若者と一しよに帰つて来た。

「御父様、この方に唯今御目にかかりましたから、此処まで御伴おともして参りました。」

須世理姫はかう云つて、やつと身を起した素戔嗚に、遠い国の若者を引き合はせた。

若者は眉目の描いたやうな、肩幅の広い男であつた。それが赤や青の頸珠くびたまを飾つて、太い高麗剣こまつるぎいてゐる容子ようすは、殆ど年少時代そのものが目前に現れたやうに見えた。

素戔嗚はうやうやしい若者の会釈ゑしやくを受けながら、

「御前の名は何と云ふ?」と、無躾ぶしつけな問をはふりつけた。

葦原醜男あしはらしこをと申します。」

「どうしてこの島へやつて来た?」

「食物や水が欲しかつたものですから、わざわざ舟をつけたのです。」

若者は悪びれた顔もせずに、一々はつきり返事をした。

「さうか。ではあちらへ行つて、勝手に食事をするが好い。須世理姫、案内はお前に任せるから。」

二人が宮の中にはいつた時、素戔嗚は又椋の木かげに、器用に刀子たうすを動かしながら、牡鹿の皮を剥ぎ始めた。が、彼の心は何時の間にか、妙な動揺を感じてゐた。それは丁度晴天の海に似た、今までの静な生活の空に、嵐を先触れる雲の影が、動かうとするやうな心もちであつた。

鹿の皮を剥ぎ終つた彼が、宮の中へ帰つたのは、もう薄暗い時分であつた。彼は広い階段きざはしを上ると、何時もの通り何気なく、大広間の戸口に垂れてゐる、白いとばりを掲げて見た。すると須世理姫と葦原醜男とが、まるでねぐらを荒らされた、二羽のむつまじい小鳥のやうに、倉皇さうくわう菅畳すがだたみから身を起した。彼は苦い顔をしながら、のそのそ部屋の中へ歩を運んだが、やがて葦原醜男の顔へ、じろりと忌々いまいましさうな視線をやると、

「お前は今夜此処へ泊つて、舟旅の疲れを休めて行くが好い。」と、半ば命令的な言葉をかけた。

葦原醜男は彼の言葉に、嬉しさうな会釈ゑしやくを返したが、それでもまだ何となく、間の悪げな気色けしきは隠せなかつた。

「ではすぐにあちらへ行つて、遠慮なく横になつてくれい。須世理姫――」

素戔嗚は娘を振り返ると、突然あざけるやうな声を出した。

「この男を早速蜂のむろへつれて行つてやるが好い。」

須世理姫は一瞬間、色を失つたやうであつた。

「早くしないか!」

父親は彼女がためらふのを見ると、荒熊のやうにうなり出した。

「はい、ではあなた、どうかこちらへ。」

葦原醜男はもう一度、叮嚀に素戔嗚へ礼をすると、須世理姫の後を追つて、いそいそと大広間を出て行つた。